4連休の初日、意を決して久しぶりの「車中泊」に行ってきました。(^^♪
もちろん、コロナに感染しないように、人が少ないと思われる場所を選んで・・・。
行先は岡山県牛窓。竹久夢二の生家、オリーブ園、さらに旧閑谷学校も寄ってみることにしました(現存する世界最古の庶民のための公立学校です)。 あちこち行くことなく、できるだけ人ごみを避けるコースにしました。<でも、万が一にも感染が怖いから、マスクはもちろん、アルコールスプレイとジェルを持参して、ことあるごとに消毒を繰り返しながらの旅です>
19日(土)朝、ゆっくりめの10時頃に家を出発。山陽自動車道に乗っかって一路岡山へ。随分昔になりますが、バイクツーリングで走ったブルーラインを走ります。
その頃は快適な道と思っていましたが、今回再び走ってみると、特に期待したような爽快な景観もないまま昼過ぎに「一本松展望園」(車中泊する予定の道の駅です)に到着。あれ???こんな平凡な道だったかな??? ここは、バイク乗りの聖地のような場所で、ツーリングの好期ともなるとあちこちからバイクを連ねてライダー達が集まってきます。この日も、結構多くのバイクが停まっていましたが、あまり近づかないようにしながら施設の様子を確認。
展望台からの景色です。
季節を間違ったのか桜がちらほらと咲いていました🌸。(^^♪
様子が確認できたので、竹下夢二の生家へ向かいました。 15分ほどで到着しました。 ここで竹下夢二について少し触れましょう。 本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。
竹下夢二と言えば、”宵待ち草”の歌を思い浮かべますね。何とも言えない趣のある歌ですね。私は結構好きですね。 「宵待草」原詩 遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな 岡山市の後楽園入り口にある「宵待草」の歌碑
以下、ホームページ(竹久夢二の足跡 | 夢二郷土美術館)より
明治17年、岡山に生まれた夢二は18歳で上京し、雑誌や新聞にコマ絵を寄稿するところから画家としての道を歩み始めます。 やがて「夢二式美人」といわれる独特の情感をたたえた美人画のスタイルを確立、叙情あふれる画集を次々と発表して人気作家となりました。 また、雑誌の表紙や広告から、千代紙、便箋、封筒、うちわ、半襟、浴衣などの日用品まで幅広くデザインを手がけ、商業美術や出版の世界でも卓越した存在でした。 仕事の領域は画家にとどまらず、今でいうイラストレーター、グラフィックデザイナー、あるいはアートディレクターの先駆者といえるでしょう。 そんな夢二の姿は、19世紀末のパリで活躍したベル・エポックを象徴する画家、トゥールーズ=ロートレック(1864〜1901)に重なります。ともに画壇に属さず、版画やポスターを独立したジャンルにまで高めた2人は、時代の先端を読み取る感性を持っていました。 明治30年代ごろから、ヨーロッパの世紀末芸術の波が日本にも押し寄せます。 夢二も、洋雑誌や美術書からロートレックをはじめ、 ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、ムンク、ビアズリーらの図版を切り抜いて貼りつけたスクラップ・ブックを残しており、熱心に研究したことがうかがえます。
さらに、簡単な足跡を見てみると・・・ 1884年(明治17年)岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。 兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられ、 15歳の時に兵庫県神戸市の叔父宅に寄宿しつつ兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退。18歳、早稲田実業学校専攻科入学。 25歳、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。 26歳、夏、房総方面に旅行し、『宵待草』を発想。 28歳、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。 33歳、『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。 34歳、『宵待草』がセノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなる。 1934年(昭和9年)49歳11ヶ月で逝去。
本名にちなんだ橋の名前。「茂次郎橋」
作品の一部を紹介・・・
こんな風に絵を描ければなぁ。。。
次に訪れたのは「オリーブ園」
「オリーブ園」に向かう途中で、ものすごく広範囲にソーラーパネルが張り巡らされた地域が現れました。
日本最大級のメガソーラー(瀬戸内kirei太陽光発電所)だそうです。オリーブ園からも見ることができました。
オリーブ園に到着です。
一日目はもう少しありますが、長くなるので「その1」はこれくらいで・・・ では、また✋✋